昭和47年の夏休み前にオヤジの会社社宅が伊達市に出来たので、登別市から引っ越した。高校は幌別にあり残り(落第しない前提でね 笑)1年半もないことから、転校しないで通学することにした。東室蘭駅で乗り換えて幌別駅まで行くためには伊達紋別駅(市名は伊達市なのであるが駅名は伊達紋別と今でも変わっていないのだ)6時直ぐの始発に乗らなければならず、社宅あった舟岡(今は住宅も増えて停車する列車もある)からは40分程度歩かなければならなかった。
弟は室蘭工業高校だったので高校のある東室蘭までのため次の列車で間に合い、その時間に合わせてのバスも舟岡から運行されていたが、私の始発に合わせたバスはないのだ。夕方はバスの運行があったのでバスを使えたが、一年半近くマァ、よく歩いたもんだと思う。冬は雪の少ない伊達市であったが吹雪く日もあり、まだ真っ暗な人家もまばらな道路をひたすら1人歩くのであるから、今でも長く歩くのは余り苦ではない。
さて、東室蘭から乗り換えて帰る列車は当時の富士製鉄や日鋼室蘭で仕事の終えた、お父さん達の帰宅列車でもあり、母恋や輪西からお父さん達は乗り込むから車内は向かい合わせの4人がけ席は満席で、今では想像もできないタバコの煙で白くかすんだ状態になっていたのだ。
席の窓には瓶カップに入った焼酎が置かれ、手には大体が氷下魚や鱈の乾物を肴にしていたから、車内はタバコとその乾物の臭いで独特の空気だった。芦屋やシロガネーゼのマダム達がその車内に入ってきたら、多分、卒倒していたのではないかと今思う。
お父さん達はカップの焼酎を愉快に語り合いながらチビリ、チビリと下車駅までの晩酌を楽しんでいた。そんな光景が今でもハッキリと思いだすことができるから不思議だ。余程美味しそうに飲んでいたのだろうな。
過日、アル歓送迎会で隣のS氏は言うのだ。酒は飲むのだが家に酒があると制限なく呑んでしまうから、休日の前の夜だけ、カップ酒2本買いそれを飲んだらその日は終わり、にしている。だから平日は全く飲まないと。
その話しを聞いた時に、なんだか自分が少し恥ずかしい思いになった。と言うのはホボ毎日惰性の様に晩酌していた。モチロン飲んで美味いのは変わらないが、酒に対して失礼の様な気がしたのだ。通勤の車内で晩酌するお父さん達の飲んでいた酒はどんなにか美味い酒だっただろうか、と思うと惰性で呑んではいけない気がしてきたのである。
酒は自分へのナニかの褒美としてこの先は飲むことにした。だから今、我慢することではなく酒は毎日飲んでいない。呑みたいな、今日は飲める日なんだと、自分が納得した日に飲むことにした。なんに納得なのかは上手く表現できないが、そゆうことだ 笑
写真はその気持ちを維持したいので、当時のお父さん達が飲んでいたカップのゴドー焼酎を買ってきた。ワンカップサイズ探したが今は製造していないようなのだ。少しばかり生意気な酒への思いを備忘として投稿しておくことにします。