昨年の10月だったか11月だったかは既に失念しています。私、アサヒロ、そしてA君と3人が一緒に仕事が出来た会社、ニセコアルペン。A君とはアルペンが会社を東急と合併してからも一緒に仕事数年間して、先に私がロッヂ開業で退職後もA君は東急で勤務後、退職しアサヒロと同じルスツスキー場に入社。昨年の秋口までルスツリゾート本社の札幌が勤務先だったが、スノーシーズンを前に、スキー場に移動になった。寮のある喜茂別町で暮らしていたので、アサヒロに、A君の歓迎会をするぞ、と声をかけてアサヒロにセッティングしてもらい、町内でこじんまりと、アルペンOB会的な歓迎会を行った。
当時アルペンの経営にあたっていた、北洋銀行の子会社、交洋不動産から社長、他数名が出向という形できていたのだが、東急と合併する年の春、出向していたTとは全く馬が合わず、ある時Tの余りに理不尽な振る舞いに耐え切れず、徹底的に逆らった。
マッ、組織ではよくある事だが、意趣返しで、営業職からいきなりの索道(リフト) への異動が発令された。この時点ではまだ東急との合併は銀行本体の幹部しか知らず、モチロン私たちも知る由はなかったのだ。やがて、色々な情報筋から東急との合併が分かったのだが、A君からTが勤務中の平日、出向していた社長とよく抜けてはゴルフに行く、と私に伝えて来た。索道事務所はホテルの前に位置していたので、その様子は全く分からなかった。
合併に向けてのアルペンの社員の不安などは一向にお構いなく、遊べる時にせいぜい遊ぶか的なその振舞に再び怒り心頭。銀行の支店に乗り込んだ。※もちろん事前アポ入れてですよ。突然乗り込む様な不躾なことは、Tじゃああるまいししません・・マッ、非常識な共通点はあるでしょうがね 笑
副支店長と面談し、事の状況を伝えた。数日後に銀行の当時の顧問弁護士のN氏から私に直接電話が入った。※電話受けて、録音しておきたかったので、手が離せないのでこちらから直ぐに掛け直します、と伝え録音準備整えてから、弁護士事務所に電話する。状況伝えたところ、事務所で後日会いましょうと言うことに。
事務所での話しを終えてから数日後に、Tは出向元に戻る事になった。アサヒロは合併の時、東急には移籍せずに退職し、ルスツに職を求め、以来ルスツで仕事した。退職前にアサヒロから「1シーズンだけでも、ヒデトシさんとリフトで一緒に仕事したかった」と言ってくれた。索道に移動後、リフトに関しては全くのズブの素人であった私を索道社員がみんなでサポートしてくれた。本当に嬉しく感謝している。そのまとめ役だったのが、アサヒロであった。
今も自室の壁に「索道部長 佐藤 英俊」の名札を下げている。ニセコアルペンの法人名 サンモリッツリフト株式会社は昭和36年 株式会社ニセコリフトサービス設立後、昭和39年、スイス サンモリッツと姉妹都市締結を記念して、社名変更しています。
創業はロープ塔のリフトでスタートした企業の最後の索道責任者に名ばかりでしたが、その職につけたことは振り返ると、Tに逆らった論功行賞(大笑) だったのかも知れません。
アサコロ・・・出来る事だったら、多分、アサヒロ達に迷惑をかけながらではあったと思うけども、1シーズンだけでも苦労と一緒にリフトの業務を共有したかったな。アサヒロ、本当にありがとう。ゆっくりと休んでくれ。お前と春に喜茂別のジンギスカン屋でA君とまた大いに飲み、語ろうと約束は叶わなかったけど、その分コロナ禍が収まった時、お前を慕っていた仲間たちと一緒にお前を偲ぶことにするよ。寂しいけど、みんなをしっかりと見守っていてくれよ、頼むよアサヒロ